1481770 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

結合双生児の人生

結合双生児の人生

千葉大資料集用論文

千葉大資料集用論文

英国のシャム双生児裁判
児玉 聡


--------------------------------------------------------------------------------

キーワード
シャム双生児 (結合双生児) Siamese twins (conjoined twins)
代理同意 proxy consent
生命の神聖さ the sanctity of life
生存権 (生きる権利) the right to life

--------------------------------------------------------------------------------

二人のうち一人を助けるためにもう一人を殺すことは許されるか――本稿で紹介する2000年に英国で起きたシャム双生児裁判において、この倫理的難問が現実に問われた。下腹部で結合して産まれた双生児のジョディとメアリがおかれた状況は、分離手術を行なわない場合は二人とも数ヶ月で死に至り、分離手術を行なった場合はジョディは生き残る可能性が高いが彼女から切り離されたメアリは確実に死ぬ、というものであった。敬虔なカトリック教徒である両親が手術に反対したため、病院の医者たちは手術の許可を求めて裁判を起こし、この事件はその年の一大ニュースとなった。すでにこの事件について論じている浅井氏が述べているように(浅井 2002)、この事例は「生と死に関わる倫理的問題のほとんどを包含している」と言えるが、その中でも本稿でとくに問題にしたいのは、両親が反対しているにもかかわらず手術を行なうことは道徳的に正しいかどうかという問題と、二人のうち一人を助けるためにもう一人を殺すという判断は道徳的に許されるのか、という問題である。

以下では、まず事件の経緯を紹介する。控訴院の判決に焦点を当てた詳しい説明を千葉氏が行なっているので(千葉2001)、法的な詳細についてはそちらも参照されたい。次にこの事件についての新聞記事や論文における議論を参考にしながら、上で述べた二つの問いについて検討する。

1. 事件の経緯
2000年8月8日、マンチェスターの聖マリア病院で一組のシャム双生児が誕生した。両親のアタード夫妻はマルタ共和国のゴゾ島に住むカトリック教徒である。妊娠初期の検査でシャム双生児をみごもっていることが判明したため、設備の整っている英国で出産すべきだという医者の勧めで5月に渡英してきた。あとで明らかにされたように、双子はグレイシーとロージーと名付けられたが、以下では裁判で使用されたジョディとメアリという仮名をそのまま用いることにする。

シャム双生児は、受精卵が分かれて一卵性双生児になるときに卵が完全に分離しないことが原因で生じる。出産10万件に対して1の割合で起きると言われているが、そのうち約4分の3は胸部か腹部で結合し、約4分の1が臀部か脚部で結合している。ごくまれに頭部で結合している場合もある。

ジョディとメアリの場合は下腹部で結合しており、ちょうど足を横に広げた二人の赤子がお尻をくっつけ合わせたような姿をしていた1。二人の脊椎は融合しており、大動脈と膀胱が共有されている。しかしこれらの点を除けば、二人の状態は劇的なまでに非対称である。元気な方のジョディは正常な脳、心臓、肺、肝臓を持っており、分離手術が成功すれば、歩行や出産ができて平均余命も期待できる人生を送る可能性が高い。他方、メアリは脳が未発達の上、心肺がほとんど機能していないためジョディが供給する血液に頼って生きている。もし分離手術をすれば、ジョディという「生命維持装置」から切り離されたメアリがただちに死亡することは明らかである。しかし医者の意見では、分離手術を行なわない場合、二人分の血液を供給しているジョディの心臓が負担に耐えきれなくなり、3ヶ月から6ヶ月以内に二人とも死ぬことが明らかである。つまり二人は、分離手術をすれば一方のジョディは助かるがもう一方のメアリは死に、手術をしなければ二人とも死ぬ、という状況にあった。

事態をより複雑にしたのは、分離手術をするかどうかという困難な選択に関して、担当医たちの意見と両親のアタード夫妻の意見が分かれたことである。医者たちは二人が死ぬのを指をくわえて見ているよりも、手術をしてジョディだけでも助けるべきだと主張した。しかし敬虔なカトリック教徒であるアタード夫妻は次の二つの理由から手術を拒否した。一つは、ジョディとメアリは等しく生存権を持っており、二人のうちの一人を死なせることによってもう一人を助けようとするのは「神の意志に反する」ということである。もし手術をしないで二人が死ぬのであれば、それが神の意志である。加えて、たとえ手術をしてジョディが助かったとしても、彼女はなんらかの障害を持つ可能性が高く、家族が病院施設の十分に整っていないゴゾ島に戻って暮らすことは、決して裕福ではない夫妻にとってもジョディ本人にとっても最善の利益ではないと考えられる。こうした理由から両親が手術に反対することによって、分離手術の倫理性だけでなく、代理決定する権限は誰にあるのかという問題が生じたのである。

ここから舞台は裁判所へと移る。1989年児童法によれば、医者が両親の意向に反して手術を行なうには、裁判所の許可が必要である。そこで聖マリア病院を管轄するマンチェスター市の保健当局は、双生児の最善の利益の観点からは、手術を拒否する両親の権限は無効とみなされるべきであるとして高等法院に訴え出た。判決は8月25日に出され、それは手術を許可するものであった。この判決を下したジョンソン裁判官は、このような事例においては親の意向を尊重すべきだとしつつも、児童法によれば「子供の福祉の考慮が最優先される」とし、分離手術を行なうことはジョディにとって最善の利益であるだけでなく、手術をしなければ激しい苦痛を伴う短い生を送らなければならなくなる メアリにとっても最善の利益であると論じた。また、分離手術によってメアリを死なせることは積極的行為ではなく、ジョディからメアリへの血液の供給を止めるという行為は、すでに判例が確立されている栄養と水分の供給停止と同様の消極的行為であり、それゆえ手術は合法的であると論じた2。この判決に納得しなかった両親は、(1)手術はジョディにとって最善の利益ではない、(2)メアリにとっても最善の利益ではない、(3)いずれにせよ手術は(メアリの殺人であるから)合法ではないと主張し控訴した3。

控訴は認められ、控訴院で一審の判決が審理されることになった。9月22日に出された判決に先立ち、ローマ・カトリックのウェストミンスター大司教と、プロライフ・アライアンス4が特別に参考意見を提出することが認められ、彼らによってメアリを殺すべきでないという主張が再び力強く主張された。ウェストミンスター大司教は両親の意見を支持し、メアリを犠牲にしてジョディを救うことは、ジョディを助けるためとはいえメアリに深刻な不正を犯すことであり、道徳的に許されないと述べた。また、裁判所は子供に対する親の「自然的権威natural authority」を尊重すべきだと主張した。一方、プロライフ・アライアンスは、分離手術は欧州人権規約の第二条で保護されているメアリの生存権を侵害するものだと論じた。さらに、判決後には、ジョディを助けるために体の弱いメアリを殺すことは障害者差別につながると警告した。

しかしこうした反対意見にもかかわらず、控訴院の判決は、一審のジョンソン裁判官の議論を批判しながらも、その判決を支持するものであった。ウォード裁判長は、1989年児童法の解釈については一審と同様に、子供の最善の利益の考慮が両親の意向に優先するとし、かつ最善の利益についての最終的な決定権は裁判所にあるとした。その上で裁判長は、明らかにされるべき論点を次の四つにまとめた。(1)メアリと分離されることはジョディにとって最善の利益か、 (2)ジョディと分離されることはメアリにとって最善の利益か、(3)二人の利益が衝突するとすれば、裁判所はどのように比較考量すべきか、(4)比較考量の結果手術するとすれば、合法的に行なうことができるか。

まず、ジョディについては、分離手術をすることが彼女の最善の利益になると裁判長は論じた。この点に関して裁判長は、手術を行なうことはジョディの最善の利益ではないとする両親の意見は、メアリの生存権を尊重する彼らの立場と両立しないと指摘した。なぜなら、両親が主張するように、重い障害を抱えたメアリを死なせることが彼女の最善の利益に反するのだとすれば、ジョディが重い障害を抱えて生きる可能性があるからといって、分離手術をしないで彼女を死なせることは、同じ理屈から言って彼女の最善の利益に反するはずだからである。

次に、メアリの最善の利益については、裁判長は、彼女の生には価値がないとする一審のジョンソン裁判官の意見を生命の神聖さを軽んじるものとして批判し、メアリにはジョディと等しく生存権があり、それゆえ手術を行なって彼女を死なせることは彼女の最善の利益に反すると述べた。

このようにジョディとメアリの最善の利益が衝突することを認めることによって、裁判長はジョディの生存権とメアリの生存権が衝突することを明らかにした。そしてこのようなディレンマに直面した場合、裁判官は責任を放棄して両親の決定に委ねるのではなく、「もっとも害の少ない選択肢the least detrimental alternative」すなわち二つの害悪の小さい方を選ばなくてはならないとし、次のように論じた。生命の神聖さの原則からして二人の生命の重さを比較することはできないが、手術が二人の生命の質にどう影響を与えるかについては考察することができる。「死を運命づけられた」メアリの寿命は手術によって数ヶ月縮まるが、ジョディは比較的普通の生活を送れるようになるのであるから、双子にとっての最善の利益を考慮すれば、手術を行なうことが圧倒的に支持される。また裁判長は、「メアリには生きる権利the right to lifeはあったとしても、[ジョディの心臓に負担をかけて]生きている権利the right to be aliveはない」とも論じた。

最後に、手術の合法性について、裁判長はまず一審の判決を検討し、手術はメアリの身体への明白な侵襲を伴うため、栄養や水分の供給を停止するといった消極的行為と同列にみなすことはできないとして、ジョンソン裁判官の主張を退けた。次に、分離手術がメアリを意図的に殺害する行為であることを認めたうえで、メアリはジョディの血液を「吸い取る」ことによって彼女を殺しつつあるのだから手術は正当防衛とみなすことができるとし、違法性を阻却した。

以上の理由から裁判長は他の二人の裁判官とともに両親の訴えを退ける判決を下し、分離手術を行なう許可を病院側に与えた。

この判決は英国全土で大きな反響を呼んだ。ウェストミンスター大司教は「他の人の命を救うためとはいえ、罪のない人間を殺害することを許した危険な判決だ」と非難し、9月23日付のインディペンデント紙の社説は「英国功利主義の最悪の伝統」に則った判決として強く批判した。その一方で、「二つの命を失うよりも一つの命を失う方がまし」とする意見や、「この判決は、(ジョディを救うという意味で)実はプロライフであり、われわれは都合の良いときだけ神の意思を持ち出す人々には用心しなければならない」という意見もあった5。

その後、両親のアタード夫妻は最高裁である貴族院に訴えるものと思われていたが、控訴院判決の数日後に上訴を断念し、分離手術を行なうことを受け入れた。手術は出産約3ヶ月後の11月6日に行なわれた。20時間にも及んだ手術の末、ジョディは無事に手術室から出ることができた。しかし、予想されたとおり、メアリは手術中に死亡した。

2. 二つの倫理的問題
以上が事件の顛末である。はたして控訴院の判決は正しかったのだろうか。以下では、「分離手術を行なうかどうかについての決定権を持つのは誰か」という問いと、「メアリを犠牲にしてジョディを助けることは正しいのか」という問いに焦点を絞り、控訴院の判決を吟味する形で本事例の倫理学的考察を行ないたい。

2.1 代理同意
代理同意の原則は、代理人は当人の最善の利益になるように判断しなければならない、というものである。自己決定においては、自分の利益に反するように見える不合理な判断を行なうことが許されるが、代理同意においては、当人の最善の利益に反するような不合理な判断を行なうならば、代理人はその資格を失う。たとえばエホバの証人の信者は、輸血をしなければ死んでしまう場合であっても、(同意能力のある)本人の決定であれば輸血拒否を行なうことは法的に認められる。しかし、同じことを親が子供について行なおうとした場合、病院は裁判所の許可を得れば親の代理同意を無効にすることができる(千葉 2001: 322)。今回の控訴院判決においても、裁判長は手術をしないという両親の判断は決して不合理なものではないとしながらも、二人の子供の最善の利益を反映していないという理由から彼らの主張を退けた。

しかし、この判決に反対する人も少なからずいる。たとえば、Journal of Medical Ethicsの編集者であるラーナン・ジロンは、今回の件に関しては親が決めることが許されるべきだったと主張している6。控訴院判決では、利益が衝突する場合には「もっとも害の少ない選択肢」が選ばれなくてはならないとされ、手術をするという選択肢が選ばれたが、彼によればこれは論点先取である。なぜなら、アタード夫妻のように「罪のない人を犠牲にして人を助けることは許されない」という価値観を持つ人にとっては、かえって手術を行なわないことこそが「もっとも害の少ない選択肢」と考えられるからである。しかもアタード夫妻の信念は多くの人に共有されており決して不合理なものとは言えないのだから、裁判所が彼らの代理同意を無効にしてしまったのは間違っていた、と言うのである。

ジロンの議論は、要するに、「子供にとって最善の利益は何か」という問いについては複数の合理的な答があるので、明らかに不合理でないならば親は子供の代理同意をする権限を奪われるべきではないということである。しかし、この議論には二つ問題がある。一つは、ジロンは「最善の利益」という語の意味を拡張して使っているということである。控訴院の判決においては、「最善の利益」あるいは福祉welfareは医学的な利益に限定されないとしながらも、生命の神聖さの見地からすれば死ぬことがメアリやジョディの最善の利益の考慮になることはありえないと論じられた。しかしジロンによれば、「最善の利益」の考慮においては道徳的信念が生死と同じくらいかあるいはそれ以上の大きな役割を果たすことになる。さらに、この道徳的信念は両親のものであり、子供のものではないことに注意すべきである。ジロンの考えでは、子供の最善の利益を考える際に、親の道徳的信念が貫かれるかどうかが重要な考慮になることになるが、この考え方は代理人は当人の利益を代弁しなければならないという代理同意の原則を逸脱する可能性がある。もちろん代理人は何の信念もなく判断することはできないが、代理者が当人の利益を代弁するときは、当人の生死の問題を最大限に尊重することが要求されてしかるべきであろう。

さらに、「子供の最善の利益に複数の合理的な回答がありえる場合は親に代理同意をする権限が与えられるべきである」というジロンの議論には、なぜ 裁判所ではなく親に代理同意をする権限を認めるべきなのかについての積極的な根拠が与えられていない。ウェストミンスター大司教が言うような子供に対する親の「自然的権威」はどうやって正当化されるのだろうか。子供に独立した人格が認められている以上、「子供は親の所有物だから」という答えはもっともらしくない7。よりもっともらしい答えは、「なんだかんだ言っても、責任を持って育てるのは裁判官ではなく親だから」というものや、「子供の利益を一番良く知っているのは、親だから」というものであろう。これらの議論はもっともであり、親に優先的に代理同意の権限を与える一応の根拠になると考えられる8。しかしこうした議論によって、親が子供を死なせる判断をなすことまでもが正当化されると考えるのは困難であろう。アタード夫妻が述べたように、ジョディが手術の結果重い障害を持つことになった場合には、彼女を責任を持って育てることができないから、夫妻にとってもジョディ本人にとっても手術をしないで二人ともそのまま死んだ方がよいという判断を認めることは、生命の神聖さを支持する立場からはできない。また今回の件に関して言えば、産まれたての子供の一人を殺さなければならないという状況において両親が冷静に判断できるかという問題もある。このような場合、第三者の裁判官の方がより冷静に重要な事実を考慮し、子供にとっての最善の利益が何であるかをよりよく判断することができると考えられる。したがって、代理決定に関しては、ウォード裁判長が判決で述べたように、「生と死の事柄について争われている場合、それを決定するのは明らかに、そして優れて裁判所が判断する事柄である」とした方が安全であろう。

2.2 罪のない人を犠牲にすることは許されるか
控訴院においては、ジョディとメアリの等しい重さの生存権が衝突することが認められたが、それにもかかわらず、ジョディを助けてメアリを死なせる手術をすべきだという結論が出された。この結論を支持する主な根拠は二つある。一つは、生命の神聖さを唱える一方で、手術が二人に及ぼす利害の比較考量を行ない、全体的に見て手術をする方が二人の最善の利益にかなうという功利主義的な理由である。もう一つは、メアリはジョディを殺そうとしており、手術によって切り離すしかジョディを助ける手段がないのだから正当防衛だという理屈である。いずれの理由もある程度もっともらしく思われるが、その一方で「今回の判決は間違っている、なぜなら或る人を助けるために別の罪のない人を犠牲にすることは許されないからだ」という主張にも相当な説得力があるように思える。そこで、以下ではこの反論にどう答えることができるかについて考えてみよう。

まず、メアリは厳密には人あるいは人格ではないので、今回の件に関して「罪のない人を犠牲にすることは許されるかどうか」という問いは的外れであると主張したらどうだろうか。このような主張は一見とんでもないように思えるかもしれないが、英国の哲学者のメアリ・ウォーノックは、はっきりと「ジョディからメアリを切り離すことは腫瘍を切除するようなものだ」と論じている9。また、控訴院の判決に反対する人々は、判決がメアリにジョディと等しい生存権を認めると述べておきながら、メアリの脳を「未発達 primitive」と形容したり、メアリがジョディの血液を「吸い取り」ジョディに「寄生」していると形容したりすることで、暗にメアリの存在価値を貶めていると非難している10。たしかに、メアリを人格とみなさないで分離手術を盲腸を取り除くのと同じ種類のものとみなすとすれば、今回の件には道徳的問題と呼べるものはほとんど存在しないことになる。しかし、このように主張することは、メアリを人格と認める人々と同じ土俵で議論することを不可能にするばかりか、障害者に対する重大な挑戦とも受け取られかねないだろう。妊娠初期の胎児ならいざ知らず、新生児の脳が未発達で心肺がほとんど機能していないからといって、その子を人と認めないことには大きな困難が伴う。この理由から、メアリを人格とみなして生存権を認めた控訴院の判断は妥当だと考えられる。

次に、メアリに「罪がない」のかどうか考えてみよう。アタード夫妻やウェストミンスター大司教は宗教的信念から「どのような理由であれ、罪のない人を犠牲にすることは正当化されない」と述べたが、本当にメアリには罪はないのだろうか。そもそも「罪がないinnocent」という言葉の意味はあいまいである。もし悪意が存在しなければ罪は存在しないと考えるならば、メアリが罪を犯すことは不可能である。しかし、意図せずに人に危害を与えることも「罪」のうちに含めるならば、ジョディの血液を借り受けることで彼女の生命を脅かしているメアリに罪があることは明らかだろう。いずれにせよ、胎児が母体を重大な危険にさらす場合は中絶することが通常許されるように、ジョディの安全のためにメアリを切り離すことは正当防衛として認められるのではないだろうか。ウォード裁判長もこの論点に言及し、学校の運動場でみさかいなく銃を撃っている6歳の子供がいたら、その子供が「罪がない」のかどうかは置いておくとしても、他の子供を守るのに必要であればその子を射殺することは違法ではないと論じている。そこで、今回の事例に関しては、「罪のない人は、いかなる理由であれ犠牲にしてはならないかどうか」という問いは意味があいまいなので、「ある人が意図せずに他人の生命を危険にさらしている場合、他の手段がなければ、その人を殺すことは許されるか」と再定式化される必要がある。この定式化が認められるのであれば、功利主義者だけでなく、個人間での利益のトレードオフを認めない人々であってもイエスと答える十分な理由を持つと思われる。

最後に、控訴院の判決における「生命の神聖さ」と「最善の利益」の関係について言及したい。すでに見たように、ウォード裁判長によれば、この判決はメアリとジョディの二人の生命の神聖さを認め、彼らに等しい生存権があることを宣言している。したがって、たとえメアリとジョディが非常に質の低い生を送ることが予想されたとしても、彼らの生存権が脅かされることはない。しかしその一方で、メアリは生きる権利は持っているが生き続ける権利は持たないとされ、分離手術が二人に及ぼす影響を考えた場合、ジョディが手術によって得る利益はメアリが失う利益よりも圧倒的に大きいがゆえに手術は許されるとされた。しかし結局のところ、このような功利主義的な総和最大化の論理と、死は最善の利益に反するという生命の神聖さの原則は、この事例では両立していないように思われる。なぜなら、手術を行なうことは総和的には二人の最善の利益になっても、それがメアリの死を意味する限り、生命の神聖さの原則に反するからである。したがって、手術の合法性を示すために用いられた正当防衛の議論は妥当であるが、親の代理同意を無効にするために用いられた最善の利益の議論は、個人間の利益の比較考量という功利主義的要素とそのようなトレードオフに限定を課する生命の神聖さという要素がうまく同居していないため、再考を要すると考えられる。

結論
今回の事例についてはさまざまな解釈が成り立ち、その解釈によって結論が異なってくるように思われる。たとえば、メアリとジョディは二人の独立した人間と考える解釈の他に、メアリは人格ではないという解釈や、(あまりもっともらしくないが)メアリとジョディは二人ではなく実は一人だという解釈もありうる。また、メアリとジョディを二人の独立した人間と理解する場合でも、第一審のジョンソン裁判官のように生命の質のアプローチを取るのか、それとも第二審のウォード裁判長のように生命の神聖さのアプローチを取るのかで推論が異なってくる。とはいえ、議論の土俵としてもっとも穏当と思われる「メアリとジョディは独立した人格」という解釈と生命の神聖さのアプローチを取った場合でも、手術はジョディの正当防衛という観点から正当化されると主張することで今回の判決を支持することができると考えられる。ただし、生命の神聖さのアプローチを採用した上で手術が二人の最善の利益になると議論することは、上で見たような困難が伴うため、子供の最善の利益の解釈という観点からは判決に問題がないとは言えない。

終わりに、手術のあとのアタード夫妻とジョディについて述べておこう。夫妻は今後のジョディの医療費と養育費をまかなう目的もあり、多額の出演料と引き換えに2000年12月7日に放映されたITVのドキュメンタリー番組に出演した。そのさいに、それまでは(公式には)伏せられていた彼らの出身地や本名などが明らかにされた。また2001年の1月19日には、手術中に死亡したメアリの葬式が、故郷のゴゾ島で行なわれた。そして同年の6月17日に、ジョディは元気な姿で両親と一緒にゴゾ島に帰っていった。その前日には、裁判所の許可が下りて二人の本名であるグレイシーとロージーという名が新聞の一面を飾り、記事には夫妻が今では手術がなされてグレイシーが生き残ったことを喜んでいると述べられていた11。

(追記) 本稿を執筆中に、英国で新たなシャム双生児の事例が報道された12。今年4月に出産が予定されているため、まだ確実なことは言えないが、超音波検査で見る限り、胸部で向かい合わせに結合し心臓と肝臓を共有している双子は、ジョディとメアリの事例とは異なり、非常に対称的である(ただし、心臓の位置がやや一方の子供の方に偏っているため、分離手術をするとすればこちらの子供を生き残らせる可能性が高い)。だとすれば、今回の控訴院の判決のように正当防衛の議論を用いることは困難であり、どのような判決がなされるかが注目される。もっとも、今回の事例においては、両親は分離手術を行なうことに同意しているため、裁判が起こらない可能性も指摘されている。


二人の姿については、以下のサイトに図解があるので参照のこと。 なお、以下の注で引用されているURLは、 すべて2002年3月19日に参照したものである。
Jodie and Mary: The medical facts
ここで言及されている判例は、ブランド裁判のことを指す (Airedale NHS Trust v Bland [1993] AC 789)。 この裁判については、注3にある控訴院の判決で説明がなされている他、 以下のサイトに簡単な説明がある。
Judging a moral minefield
高等法院での判決の要旨と控訴院での判決については、千葉(2001)の他、 主に以下のサイトを参考にした。
In the supreme court of judicature, court of appeal (civil division), on appeal from family division: (Case No: B1/2000/2969)
Siamese twins: The judgement
人工妊娠中絶や安楽死に反対する英国の市民団体 (http://www.prolife.org.uk/)。
判決についてのさまざまな反応については、以下のサイトを見よ。 Siamese twins: The reaction
Raanon Gillon, `Imposed separation of conjoined twins -- moral hubris by the English courts?', in Journal of Medical Ethics, 2001;27:3-4. ノールズも基本的に同じ主張をしている。 Lori P. Knowles, `Hubris in the Court', in Hastings Center Report, Jan-Feb 2001, pp. 50-52.
約150年前、J・S・ミルは『自由論』において、 人々は個人的自由の範囲を誤解していると嘆き、次のように述べた。 「子供たちは、比喩的にでなく文字どおり、 自己の一部とみなされるものと人はほとんど思いがちであって、 子供たちに対する彼の絶対的排他的支配に対する法のほんのわずかな 干渉にさえ、世論は非常にはげしく反発する」 (『世界の名著 ベンサム J・S・ミル』、中央公論社、1979年、336頁)。 この考え方はまだ根強く残っており、 今回の判決に対する反対の隠された根拠になっているように思われる。
しかし、両親の意見が解決不可能なほどに対立する場合にどうするか という問題があるだろう。
Mary Warnock, `Reason to live or die', The Observer, 28/Aug/2001.
たとえば上掲のジロンやノールズの論文を見よ。
Siamese twin returns home
One of our Siamese twins must DIE
Dreadful dilemma facing twins' parents
参考文献
浅井篤、「結合双生児の分離手術」、『医療倫理』 (浅井篤、服部健司ほか著、勁草書房、2002年3月出版予定)、第6章
千葉華月、「シャム双生児分離手術事件控訴院判決」、 『年報医事法学』(2001年16号)、日本医事法学学会編、2001年
千葉華月、「シャム双生児分離手術事件判決――誰が何に基づいて判断する べきか」、日本生命倫理学会ニューズレター、第20号(2001年6月15日)、5頁
Veronica English et al., `Ethics briefings', in Journal of Medical Ethics 2001; 27;62.
Raanon Gillon, `Imposed separation of conjoined twins -- moral hubris by the English courts?', in Journal of Medical Ethics, 2001;27:3-4.
Lori P. Knowles, `Hubris in the Court', in Hastings Center Report, Jan-Feb 2001, pp. 50-52.
Alex John London, `A Separate Peace', in Hastings Center Report, Jan-Feb 2001, pp. 49-50.
[謝辞] 今回もいろいろな方にお世話になったので、ここに記して謝意を表したい。京都大学医学部の浅井篤氏には、文献を紹介していただいた。京都大学文学研究科リサーチアソシエイトの板井孝壱郎氏と京都大学文学部倫理学研究室出身の松村路代氏には、草稿を読んでもらい貴重なコメントをいただいた。もっとも、本文中に誤りがあるとすれば、すべて責任は筆者にある。

(こだま さとし 京都大学大学院文学研究科 日本学術振興会特別研究員)


© Rakuten Group, Inc.